2014年07月12日

教えを「頂く」のにかかる時間

カテゴリ:人間関係心磨き東北復幸支援祈りについて

助言やアドバイス、教えをどれくらい時間かけて「頂いて」おられますか?

 2011年3月11日、私は金光教学院で修行中でした。新聞で情報を知り、騒然としていても立ってもいられなくなり、同期生のみんなで議論になり、神さまの前に一同に会して、意見を交わしました。

 そこでは、次のような願いが生じました。
・祈願詞を作って、毎夕勢祈念をさせていただく。
・お小遣いを募って金光さまにお届けし、御取次を頂いて神さまにお願いする。
・また、お下げいただく御神米を被災地にお届けする。
・岡山駅前で募金活動をし、支援金をしかるべき団体に送る。

 これらの施策は、お繰り合わせを頂いて、それぞれが任意で参画し、実現に至ったのですが、その過程では同期生同士がギクシャクすることがありました。
 

 たとえば、「祈る」ということについて、ある方は
「被災された方の気持ちが分からない者が祈るのは偽りで、かえって失礼なことだ」
とおっしゃり、またある方は
「いや、分からないからこそ、祈って稽古を重ねていくのが修行生だ」
とおっしゃり、それぞれの感じていること、ご信心が表に出てきて、
全員が一丸となって取り組む、ということには至りませんでした。

 こうしたことが、私の中では分からないことだらけで、それぞれの思いがバラバラで、かえって関係がこじれてしまったこと、そして「祈る」ということはどういうことか、ここにいていいのか、果たして届くのか、どのように祈ればいいのか?
といったことを、金光さまにお伺い申し上げました。

(当時、学院生活の後半、私は毎朝4時のご祈念に参拝し、金光さまに日々のことをお届け申し上げ、御取次を頂く、という稽古をさせていただいておりました。)

 状況を申し上げ、お伺いしましたところ、じいっと聴いてくださって、間もなく
「氏子、なんなりとも実意をもって願え」とのお言葉を頂戴しました。

 正直に申しまして、私の頭の中は「?」と真っ白になって、
「実意をもって願え」って、どういうこと?
という疑問が膨らみ、文字通りの言葉の意味は理解していたつもりですが、
今目の前で起こっている現実と、頂いたみ教えがうまく自分の中ではつながらず、
問い続けることになりました。

 実意・・・神さまに届くように本気で、一心で、ということなのか?
      学院生全員の思いに耳を傾けて、行き届いて進めるということなのか?
      私の中にあるものは偽りの心だから、控えなさい、ということなのか?
 ・・・etc
 

 結局のところ、私は分からないまま、毎朝金光さまにお届け申し上げ、上述のすべての施策に参加させていただき、学院在学中にも答えが見つかりませんでした。

 さらには、卒業後にもずっと問い続け、出来る限りの支援活動に参加し、企画し、そして実体験をもって感じることが増えながら、現在も分からないままです。

 ありがたいことに、今に至るまでの間、東北の復幸支援活動を通じて、たくさんの方との出会いを頂き、ご協力を頂き、その時に出来るだけの精一杯のことをさせていただくことができました。

 人が神さまから頂いている「神心(かみごころ)」にいっぱい触れました。

 また、支援活動などを通じて、実際に被災地に訪問させていただき、住民の方々と直接触れ合う機会をたくさん頂きました。現地でずっと支援活動をなさっている方、教会の先生方のご用のお姿に、教えていただくことがたくさんありました。

 人が神さまから頂いている命の尊さ、天地の雄大さを実感することばかりでした。

 一方で、被災地の状況はどうか、果たして少しでもお役に立つことができたのか、かえってお邪魔になったりご迷惑にはなっていないだろうか、宗教者として、もっとできることはないだろうか?
といった問いが膨らんでいるのも現実です。

 きのう、40ヶ月目を迎えさせていただき、あらためてこれまでのことをふり返り、来月に予定している支援活動に際して、「実意をもって願え」とのみ教えを頂きなおしました。

 こころの宮/金光教乙島教会では、それぞれの悩み事や願い事などをじっくりと聴かせていただき、「御取次」の働きをもって神さまにお届け申し上げ、時には教えをお伝えしています。

 そこで頂く教えによって、直ぐにハッと気付かされ改心して、事態が好転したり、病気が快方に向かったり、願いが成就したり、と短時間で瞬時におかげを頂くことが多くあります。

 しかし、聞き手によっては、その教えをうまく受け止められず、直ぐに理解できず、長い時間を要することもあります。

 私自身はその取次者でありますが、同時に参拝者でもあり、この度の大震災を契機に金光さまから頂いたみ教えを、「頂こう」と未だにもがいています。

 いつの日か、み教えを「頂いた」と実感できる日が来るのだと信じておりますが、今までのところで少なくとも言えることは、み教えを「頂こう」と取り組む中に、自分勝手なあり方、人間本位のあり方を問い直したりしている自分がいて、そのこと自体がありがたい、ということです。

 しかも、被災地に訪問する度に、感動して涙がこみ上げて来る時間を頂いていて、そのことが今の自分のふだんのご用の上にも大きな力を頂いております。

 もし、教えを「頂こう」としていなければ、もっと自分勝手なあり方で、ご迷惑をおかけし続けたり、嫌な思いをさせてしまったかもしれませんし、「頂こう」とする中で、軌道修正して何とかなったことが何度もありましたので、感動することが一度も無かったかもしれません。

 すでにここまでで、たくさんのおかげを頂いていることに気付かされるのです。

 まだ「頂く」ために稽古を続けている最中ではありますが、「頂こう」と求めているおかげで、神さまがお示しの天地の道理に沿ったあり方にお導きいただいているのだと感じざるを得ません。
 月
 写真は、けさ金光さまのお出ましをお迎えさせていただいた後、帰りの道中でお月様を見上げつつ、玉島の港を写したものです。

 肉眼では、この写真の十倍くらいに見え、黄金のような琥珀のような色で、クレーターがくっきり見えました。まんまるでした。

 ずっと見続けていたいくらいでしたが、絵で表現できたらいいな、とも思います。
 

 きょうもお越しいただきありがとうございました。
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