2014年06月28日

お任せしきる心を

カテゴリ:心磨き恋愛・結婚改心行事報告

金光教本部にて「教会長教師研修会」が行われ、スタッフとして参加しました。

 ありがたいことに、私も講師の先生からのお話を拝聴でき、大変勉強になりました。しかも、私自身の心の修行と重なることで、非常にありがたく、感激しました。

 私は失恋をきっかけに、誕生日の9月29日までの100日間、神さまにここまでの御礼とお詫びを申すことに集中する心の修行に取り組ませていただいております。

 この度の反省点として、神さまを信じる心、お任せしきる心、覚悟ができておらず、相手の方にもどかしい思い、苦しい思いをさせてしまったことがあります。

 そこには、私自身が、ここまでお育て頂いたご恩への感謝の気持ちと、お礼が足りていなかったことが原因にあったと気付いたからです。

 これほどまでにおかげをくださっている神さまなのだから、大丈夫だと信じる心、先のことが不安でも、必ず良いようにしてくださると「お任せしきる心」、その覚悟ができているつもりでも、不十分だったのです。

 未だに申し訳ない思いでいっぱいです。

 この度の研修会を通じて、取次者としては「お任せしきる心」を持ち合わせることが不可欠であると同時に、世の中の難儀はその反対にある「疑いの心」にあり、
人々が「お任せしきる心」になる橋渡しをする役目があることを自覚しました。

 難儀の元:疑いの心、不平・不足、不安・心配、後悔
 おかげの元:信じる心・お任せしきる心、感謝・報恩、喜び・楽しむ心、改まり

 と、自分なりに整理してみました。引き続き求めてまいります。

 さらには、自分の願いどおりに行かないこと、足りないこと、不自由なことに対してでさえ、神さまのご都合であり、神さまから頂いたご修行であるとして、
「ありがとうございます」と頂くことを教えていただきました。

 まことにありがたいことです。今の修行にエールを頂いた思いです♪
 ゴーヤ⑦
 
 写真は、ゴーヤです。花がたくさん咲いています。
どんどん伸びて、咲いて、広がって、気ままです。

 きょうもお越しいただきありがとうございました。
岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。

2014年06月19日

失恋にもありがとう!

カテゴリ:心磨き恋愛・結婚改心

みなさんは失恋をしたことがありますか?

 まだ自分の心の中で整理がついていないのですが、去る13日の月例祭の後に、お付き合いしている方との交際を終えることになりました。

 5月4日から始まって40日間、遠距離で毎日のようにメールでやり取りを続け、最初のうちは、お互いにそれが楽しみだったのですが、少しずつ思いに変化が生じ、不安や心配が増え、ついには相手から、このまま遠距離で続ける自信が無い、とお別れの相談を頂くことになったのです。

 頭が真っ白になり、なんとなく恐れていたことが現実となり、時間を戻したい後悔の念と、自分への情けない思いでいっぱいになりました。

 しかし、その現実を受け入れるしかなく、何度かやり取りを経て、お別れをすることになりました。

 原因は、私にあると思っています。覚悟を決めて告白をしたことが成就し、感激して、自分自身が舞い上がっていました。

 最初のうちは良かったのですが、こちらのことを知ってもらいたい、遠距離を乗り越えたい、彼女を自分のものにしたい、というような欲が強くなったのだと思います。

 次々に、画像やメッセージを送り、忙しく毎日お仕事にご尽力されている相手に負担をかけてしまい、「いいね!」と言わせてしまうことを続けてしまいました。

 空回りしてしまい、手前に引き寄せようとするほど、遠ざかっていく、そんな悪循環に陥っていました。「大丈夫!」と誓ったこと、安心が一気に崩れ去りました。

 気付いた時には既に遅しで、相手のことを殆ど聞かず、知らず、お気持ちを受け止めること、心を通じ合わせることがなく、一方通行なままでした。

 私には想像できないような、大変苦しい思いをさせてしまったのです。

 もったいないことに、彼女から頂いた最後のメールには、「気持ちに応えきれていない自分がもどかしい」と書いてくださり、一生懸命に私の思いを受け止めようとしてくださっていたことが、はっきりと分かりました。

 本当に申し訳のない気持ちでいっぱいです。彼女や周りの方に対して、家族・親族や応援してくださっている人たちに対して、そして貴重な機会をお繰り合わせしてくださった神さま、見守ってくださっている御霊様に対して。

 大切な人を失ってしまった喪失感、しかもその原因が自分の心の弱さ、信心の未熟さにあるという後悔や憤りで、ぽっかりと心に穴が空いてしまいました。

 しかし、目の前にはご用が待っており(翌14・15日は田植えのイベント)、立ち止まることはできず、心の整理をつけられないまま時間が過ぎていきました。

 田植えのイベントの際に、みんなで田植えをしてはしゃいで楽しんだり、ジンギスカン&ビールで喉を潤したり、ホタルに遭遇したり、古民家の縁側からのどかな田園風景を眺めていると、気持ちのいい風が入ってきたり、その度に「ああ、なんとありがたく幸せなことか。この感動を彼女と一度でも共有できていたら・・・」と、もう終わっているはずなのに、感動すればするほど、悔しくなり、涙が流れる寸前までこみ上げてきました。

 心の中では何度も何度も泣きました。

 たぶん、一人きりでしたら、自分を責めて自らを消し去ってしまう方向に進んでいたかもしれません。

 ありがたいことに、応援してくださっていた方々に報告しますと、いろいろと励ましたくださり、自分一人では気付けないことをたくさん教えてくださいました。

 そして、神さまに心を向けて、ここまでのことをお礼申し、お詫び申して、彼女が引き続き命を頂かれ、元気にお仕事ができ、幸せになることを必死にご祈念していくうちに、少しずつこの度の失恋、失敗を無駄にしないようにしつつある自分があり、しかも、その中にもありがたいと思えること出てきています。

 一番大きく変化しているのは、自分の気持ちよりも、相手の心が助かり、元気になり、幸せになることを第一にしなければならないこと、それをいつどんな時でも徹底しないといけないことを痛切に思い知らされ、そのおかげか、日頃のお取次のご用での心の中が変化してきています。

 
 今まで以上に真剣に、参拝して相談される方の悩みに耳を傾け、自分自身のこととして想像し、思いを感じ取り、一心に祈りを込めている自分がいます。

 それが力みではなく、自然とできてくるのです。

 東日本大震災の被災された方々のことも、これまで以上に心を寄せて祈りをしている自分がいます。

 こんな私の40日間の失恋でさえ、とてつもない喪失感に見舞われているのに、東北の方々は、最愛のご家族やご友人たちを大勢なくされている、しかも突然に。

 未だに行方が分からず、捜索を続けておられる方も多くいらっしゃる。その方々の心中を想像するだけでも、胸が張り裂けそうで、涙があふれ出てきます。

 今後の支援活動の上にも、心新たに誓いを立てています。

 まだこの度の失恋のことを整理しきれておらず、私が反省すべき点はたくさんあるのだと思いますが、失恋したおかげで、今までに無い熱い思いが湧き出てきて、私が今頂いている役目、ご用に対する姿勢が変わりつつあり、このことは何事にも変えがたい、ありがたいことなのだと感じております。

 失恋にも、「ありがとうございます」とお礼を申さねばなりません。
メダカ
 写真は、さらに翌日の16日に教会にお供えのあったメダカです。
別れがあり、また出会いがあるものですね。

メダカの子ども
 こちらは、孵化したばかりのメダカの赤ちゃんです。
中心よりやや下にいます。見えますか?

 きょうもお越しいただきありがとうございました。
岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。

2014年06月10日

「甘え」とどう闘っていますか?

カテゴリ:改心

きのうの早朝のこと、私は取り返しのつかない大失敗をしました。
それは、「忘れ物」です。

 前日の夜に、母から「あしたの早朝参拝の時に、姉にこの花を渡してくれる?」と頼まれて、「わかった」と約束していたのですが、教会に置き忘れたまま参拝してしまい、それに気付いたのは帰りの道中、という始末でした・・・

 母の姉(私にとっては伯母)は、福岡から教団独立記念祭に参拝され、一泊されてきのうの朝に帰られる予定で、渡すとしたらそのタイミングしかなく、しかもそのお花は可愛らしく珍しいもので、「接木(つぎき)」をすれば育てて増やせるらしく、伯母にとって楽しみだったのです。

 にも関わらず、託された私は失念してしまい、その楽しみをお届けすることができませんでした。

 父からは、「また忘れ物?多いなあ・・・」と言われ、がっかりさせてしまい、運転中そのことで頭がいっぱいになり、冷静さを欠き、「取り返しのつかないことをしてしまった」、しかも「また忘れ物をしてしまった」という後悔と無念と、自分に対する憤りで、やり場の無い思いで、苦しくなりました。

 「ああ、どうしよう・・・」。いくら考えても善後策は見つからず、「すぐ引き返して、お届けに行こうか?」と父に相談するも、「今は、お結界の御用がある。それに、道中事故があった場合のリスクの方が大きい。どうしても必要なのか、お母さんに相談しなさい」と諭され、母に「忘れてしまった。ごめん。これからお届けに行こうと思うけど・・・」と相談しました。

 すると、母は「ああ、いいよ。元々、“できたら”と伝えていたから。」と許してくれ、「こっちで育てて、次に渡すこともできるから」と、私も思っていた善後策の一つを考えているようでした。

 このことは、これで一区切りついたのですが、この間、私は「ご祈念帳」という神さまにお礼やお詫び、お願い事を書き留める、和紙でできた帳面に書き記し、しばらく神さまに心を向けて、何度も何度もお詫びをしました。

 最初のうちは、自分を責めて、嫌になり、逃げ出したくなる気持ちでいっぱいでしたが、ふとした瞬間に「いや、このままでは何も変わらない。変えないといけない」と思いを切り替え、今出来ることは、忘れ物をしないように改まることだ、という結論に至りました。

 そして、その原因には「甘え」があることに気付きました。家族以外の方との約束は、比較的忘れることはそれほど多く無いと思っているのですが、父や母から頼まれたことは、よく忘れることが多いのです。

 そこには、少なからず「甘え」が潜んでいて、父や母からの頼まれごとに対して真剣に耳を傾け、それを自分のこととして受け止め、しっかりご祈念して取り組めていない自分がいます。

 たとえ忘れ物をしても、また、何か失敗をしても、父や母なら許してくれる、といった良い意味では安心感があり、悪い意味では甘さが心のどこかにあるのです。

 甘えられる場所がある、というのは大変ありがたい事ですが、それに甘んじてしまうと、周りに迷惑をかけたり、期待を裏切ってしまったり、大切な機会を逸してしまうことになります。

 「甘え」に打ち克って、そうならないようでありたいのですが、あまりガチガチになりすぎても息苦しいですし、自然体にできたら、いいですよね。

 その際、神さまに心を向ける、そして改まりを願うことが起点だと思っています。

 みなさんは、ご自分に潜む「甘え」をどう克服していますか?
花
 写真は、その「忘れ物」です。鮮やかな色で可愛らしいお花ですね。
この度の誓いを忘れないよう、その時間に撮影しました。(朝4時半ごろ)

 きょうもお越しいただきありがとうございました。
岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。
 
 



 

2014年06月03日

お掃除が心をつなぐ?

カテゴリ:心磨き改心

みなさんは、毎日お掃除をされていますか?

 正直に申しまして、私はお掃除が苦手です。すぐに散らかしてしまいますし、整理整頓がなかなかできません。さらにお恥ずかしい話ですが、金光教学院で修行させていただくまでは、丁寧に心を込めて掃除をする、とう経験が殆どありませんでした。

 一人暮らしを16年経験しましたが、特に社会人の頃は、部屋に足の踏み場も無い状態でした・・・

 ありがたいことに、修行のおかげで、掃除をする習慣が身に付いたのですが、それでも、気を緩めるとついサボってしまう自分がいます。

 そうした自分を戒める為にも、毎日の課業の一つとして、教会の車のお掃除を毎日させていただいております。

 黒い車で汚れが目立つということもありますが、ことし買い求めることができたことが、当たり前ではないことを忘れない為にも、取り組んでいます。

 夕方の金光教本部へのお礼参拝を終えて戻ると、ハンドタイプの掃除機を使って、車内の塵や埃を吸い取り、雑巾を使って、車の天井からホイールに至るまで、できるだけ丁寧に汚れをふき取っています。

 きのうのこと、私が車の掃除の最中、教会の中の様子を見ると、しばらくお取次を頂いていた方がいて、その参拝者のお車の汚れがつい目に入ってきました。

 「ああ、この方はいつもお仕事が忙しく、しかもヘトヘトになるまで頑張っておられる。洗車をする時間も無いんだろうなあ。そうか、ついでにお掃除させていただこう!」、と思いつきまして、ご本人の許可無く(笑)、拭かせていただきました。

 ちょうど一通り終えた頃に、その方が教会を出て来られ、開口一番に「まあ、もったいないことです。ありがとうございます。」と声高に喜んでくださいました。

 しかも、直前にご友人から頂いたであろうお菓子を、私にくださいました。何度もお断りをしたのですが、それでもくださろうとしたので、ご好意としてありがたく頂きました。

 お互いに笑顔になり、「お疲れ様でした」と申し、車をお見送りさせていただきました。

 ふと、思い出したことは、初代・祖父にとって、初めての参拝者は借家の家主さんのご主人でして、なぜ参拝をされたのか、初代は次のように遺しています。

 ・・・私は、この借りた家を、毎日お掃除をしました。親教会でくせになっとりましたから、お掃除するたびに便所でも毎日お掃除しました。

 それをその借家のおばあさんが見ていて、そのおじいさんに、「岩本さんは、毎日、本部に日参しよる。朝晩に拝んどりなさって、便所掃除を毎日なさって、あの四軒長屋の縁側が光るようになっとる」と言われた。

 それを聞いて、そのご主人が「裏から失礼します」と言うて入って来て、「あなた、先生ではございませんか」と言われる。

 「先生の資格はありますけれど、私は徳がないので、胃下垂になり静養にきとります」とお答えした。「そうですか、ちょっとお待ちください」と言って裏から出ましてね、十分とたたないうちに、今度は羽織を着て表から入ってきた・・・中略

 ・・・「そうですか、金光では、なんでもお礼を申しますからね。お便所にもお礼を言うつもりでお掃除をしております」と言いましたら、「ああ、そんならそういう話をしてください。私はこのところの町内会長をしとりまして、副会長は二人おりますが、明日から連れてきますから」と言うて、翌日から人を連れて来られるようになった・・・
 

 このように、初代にとって、またこの教会にとって、初めての参拝者のきっかけとなったのは、お掃除でもあったんですね。

 面倒なことであり、後回しにしがちなお掃除。心を込めてさせていただきたいものです。また、忙しい毎日、容易にはいきませんが、そういう時間と心のゆとりを持ち続けたいですね。

お菓子

 写真は、そのお菓子です。ご霊前にお供えさせていただきました。

 きょうもお越しいただきありがとうございました。
岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。
 

2014年05月26日

祈りの力点について

カテゴリ:人間関係改心

みなさんは、苦手な人、厄介な相手とどう向き合っていますか?

 昨日のこと、参拝された方から人間関係の問題についての相談を受け、詳しく聞かせていただいて、神さまにお届けし、ご祈念させていただきました。

 協力を取り付けたい相手がいるのですが、その相手が身勝手な人、いくら誠意を尽くしても応じてくれず、逆に、身に覚えの無い愚痴や文句で罵倒してくる人、いわゆる「鬼」と化した人で、全くらちが明かない、というご相談でした。

 1時間以上、じっくりと聴かせていただくうちに、ご本人としては、争わないことにして、その相手のことを祈って、時節を待ちたい、ということになりました。更には、ご自身も反省点があり、改まりを願っておられました。

 ふつうなら、訴訟を起こして、合意を取り付ける方向で進んでもおかしくないご事情でしたが、一緒に神さまに心を向けて、神さまの御心に沿ったあり方を探るうちに、ご本人自らが出した答えでした。

 まさに、その方の中に頂かれている「神心(かみごころ)」が生き生きと働いてのことでしょう。

 一方で、今後、その方のことを祈るに際しては、私からは次のように申しました。
「相手の方の“こころ”が助かっていくように祈らせていただきましょう」

 鬼と化してしまったのは、それなりの背景があってのことです。しかし、どんな鬼であっても、必ず神さまは「神心」を授けてくださっています。それが活性化すれば、鬼の心はどこかへ消えていくからです。簡単にはいきませんが。

 また、私自身の経験からも、「相手が改心しますように」「こちらの言うとおりにしてくれますように」と願っても、神さまには通じず、「どうか、相手の心が助かり、立ち行かれますように」と願い、「どうか、私は改まらせてください」と自らが改心を願っていくと、次第に事態が好転したことから、そのように申しました。

 それは、神さまの御心にかなった、神さまの喜ばれる祈りだからだと思います。

 祈りを捧げる際や、一生懸命お願い事をする際は、どこに力点を置くのか? 
神さまの御心にかなう祈りとは?・・・引き続き求めてまいりたいと思います。

こんにゃく
 写真は、お刺身用のこんにゃくです。酢みそや、わさび醤油を少々つけていただくと、サッパリと爽やかで、暑い時期にピッタリです。

 きょうもお越しいただきありがとうございました。 岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。