2014年06月22日

疑いのない心(音声ブログ)

カテゴリ:人間関係心磨き恋愛・結婚神さまについて音声ブログ

昨日のお話が、音声ブログとして更新されています。

http://www.voiceblog.jp/shiawasehiroba/

今回は、副教会長による「疑いのない心」というお話です。

(※音声ブログは、基本的に毎朝8時頃には更新されます。)

2014年06月19日

失恋にもありがとう!

カテゴリ:心磨き恋愛・結婚改心

みなさんは失恋をしたことがありますか?

 まだ自分の心の中で整理がついていないのですが、去る13日の月例祭の後に、お付き合いしている方との交際を終えることになりました。

 5月4日から始まって40日間、遠距離で毎日のようにメールでやり取りを続け、最初のうちは、お互いにそれが楽しみだったのですが、少しずつ思いに変化が生じ、不安や心配が増え、ついには相手から、このまま遠距離で続ける自信が無い、とお別れの相談を頂くことになったのです。

 頭が真っ白になり、なんとなく恐れていたことが現実となり、時間を戻したい後悔の念と、自分への情けない思いでいっぱいになりました。

 しかし、その現実を受け入れるしかなく、何度かやり取りを経て、お別れをすることになりました。

 原因は、私にあると思っています。覚悟を決めて告白をしたことが成就し、感激して、自分自身が舞い上がっていました。

 最初のうちは良かったのですが、こちらのことを知ってもらいたい、遠距離を乗り越えたい、彼女を自分のものにしたい、というような欲が強くなったのだと思います。

 次々に、画像やメッセージを送り、忙しく毎日お仕事にご尽力されている相手に負担をかけてしまい、「いいね!」と言わせてしまうことを続けてしまいました。

 空回りしてしまい、手前に引き寄せようとするほど、遠ざかっていく、そんな悪循環に陥っていました。「大丈夫!」と誓ったこと、安心が一気に崩れ去りました。

 気付いた時には既に遅しで、相手のことを殆ど聞かず、知らず、お気持ちを受け止めること、心を通じ合わせることがなく、一方通行なままでした。

 私には想像できないような、大変苦しい思いをさせてしまったのです。

 もったいないことに、彼女から頂いた最後のメールには、「気持ちに応えきれていない自分がもどかしい」と書いてくださり、一生懸命に私の思いを受け止めようとしてくださっていたことが、はっきりと分かりました。

 本当に申し訳のない気持ちでいっぱいです。彼女や周りの方に対して、家族・親族や応援してくださっている人たちに対して、そして貴重な機会をお繰り合わせしてくださった神さま、見守ってくださっている御霊様に対して。

 大切な人を失ってしまった喪失感、しかもその原因が自分の心の弱さ、信心の未熟さにあるという後悔や憤りで、ぽっかりと心に穴が空いてしまいました。

 しかし、目の前にはご用が待っており(翌14・15日は田植えのイベント)、立ち止まることはできず、心の整理をつけられないまま時間が過ぎていきました。

 田植えのイベントの際に、みんなで田植えをしてはしゃいで楽しんだり、ジンギスカン&ビールで喉を潤したり、ホタルに遭遇したり、古民家の縁側からのどかな田園風景を眺めていると、気持ちのいい風が入ってきたり、その度に「ああ、なんとありがたく幸せなことか。この感動を彼女と一度でも共有できていたら・・・」と、もう終わっているはずなのに、感動すればするほど、悔しくなり、涙が流れる寸前までこみ上げてきました。

 心の中では何度も何度も泣きました。

 たぶん、一人きりでしたら、自分を責めて自らを消し去ってしまう方向に進んでいたかもしれません。

 ありがたいことに、応援してくださっていた方々に報告しますと、いろいろと励ましたくださり、自分一人では気付けないことをたくさん教えてくださいました。

 そして、神さまに心を向けて、ここまでのことをお礼申し、お詫び申して、彼女が引き続き命を頂かれ、元気にお仕事ができ、幸せになることを必死にご祈念していくうちに、少しずつこの度の失恋、失敗を無駄にしないようにしつつある自分があり、しかも、その中にもありがたいと思えること出てきています。

 一番大きく変化しているのは、自分の気持ちよりも、相手の心が助かり、元気になり、幸せになることを第一にしなければならないこと、それをいつどんな時でも徹底しないといけないことを痛切に思い知らされ、そのおかげか、日頃のお取次のご用での心の中が変化してきています。

 
 今まで以上に真剣に、参拝して相談される方の悩みに耳を傾け、自分自身のこととして想像し、思いを感じ取り、一心に祈りを込めている自分がいます。

 それが力みではなく、自然とできてくるのです。

 東日本大震災の被災された方々のことも、これまで以上に心を寄せて祈りをしている自分がいます。

 こんな私の40日間の失恋でさえ、とてつもない喪失感に見舞われているのに、東北の方々は、最愛のご家族やご友人たちを大勢なくされている、しかも突然に。

 未だに行方が分からず、捜索を続けておられる方も多くいらっしゃる。その方々の心中を想像するだけでも、胸が張り裂けそうで、涙があふれ出てきます。

 今後の支援活動の上にも、心新たに誓いを立てています。

 まだこの度の失恋のことを整理しきれておらず、私が反省すべき点はたくさんあるのだと思いますが、失恋したおかげで、今までに無い熱い思いが湧き出てきて、私が今頂いている役目、ご用に対する姿勢が変わりつつあり、このことは何事にも変えがたい、ありがたいことなのだと感じております。

 失恋にも、「ありがとうございます」とお礼を申さねばなりません。
メダカ
 写真は、さらに翌日の16日に教会にお供えのあったメダカです。
別れがあり、また出会いがあるものですね。

メダカの子ども
 こちらは、孵化したばかりのメダカの赤ちゃんです。
中心よりやや下にいます。見えますか?

 きょうもお越しいただきありがとうございました。
岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。

2014年06月11日

履物をそろえると・・・

カテゴリ:子育て・教育・学業心磨き

履物をそろえることで、心が整って、その心は次の行動を整えてくれるようです。

 一昨日、車のお掃除をしていましたら、近所の子どもが駆け寄ってきて、「ねえ、先生、お祈りしてもいい?」「した方がいいかなあ?」と無邪気に尋ねてきました。

 「うん、お祈りしていいよ。したらええがあ」と答えると、そそくさと玄関に入って、教会に上がりました。

 ちょうど父がお結界に座っていて、玄関まで出てきて、”あること”を確かめました。

 それは、“靴がそろえられているかどうか”です。

 いつも子どもたちは、バタバタと教会に駆け込んできて、気ままに楽器で遊んだり、マイクで面白おかしいことを話したり、友だちの持ち物を隠したり、まあ、こちらの言うことは全然聞かず、好き勝手にはしゃぎます。

 そんな時、父が必ず注意することがあります。

 「先ず履物をそろえなさい!」

 このことには徹底してこだわって厳しく注意します。履物をそろえないと、遊ばせてあげないのです。

 この時も、履物がそろっていなかったので、その男の子は「あ、忘れてた」と、素直に靴をそろえなおし、教会にもう一度上がって、お祈りを始めました。

 そして、子どもたちとのお決まりがもう一つあります。それは、次のようなお祈りを一緒にすることです。

 病気をしませんように。
 交通事故にあいませんように。
 先生やお父さんお母さんの言うことがよく聞けますように。
 お勉強がよくできますように。
 みんな仲良く遊べますように。
 いじめたりいじめられたりしませんように。
 お役に立つ人にならせていただけますように。
 金光さま、お願いします。

 続いて、ご霊前ではご先祖様にお礼を申し上げ、
 「万事おかげになる(初代の遺言)」と4回唱和します。

 
 その後、子どもたちのお目当てである「お水(サーバーを設置しています)」を飲むか、「飴ちゃん」を頂くか、父か私と「拳法(少林寺拳法)」の練習をします。

 
 こういうことを繰り返していくうちに、最初はお目当ての為に、仕方なく靴をそろえたり、お祈りをしていた子どもが、「お祈りをしてもいい?」と言うようになってきました。

 何かしら悩んでいたり、感じていることがあって、お祈りをすることで、心の中を整理したり、落ち着かせたりして、また友だちと遊びに出かけているのでしょうか。

 ふと思い出したのですが、会社員のとき、あるお客さまから、「商談相手の靴を見ると、その方が信頼できるかどうか、わかりますよ」と教えていただきました。

 靴がきれいに磨かれている方は、仕事もきちんとこなすことができ、取引先として信用できる、という一種のパラメーターになるのだそうです。

 たしかに、私自身、仕事に追われて自分を見失っていた時は、靴のことには気が回らず、仕事も人間関係も、すべてが悪循環に陥っていました。
 

 履物をそろえることは、一見どうでもよいこと、後回しにしてもよいことのように思えますが、そこを大切にすることで、心が整い、ゆとりができ、次の行動を整えてくれる。

 それは「お礼を申す」という大事なことを見失わない生活になり、物事の順番が狂わず、人間関係をも円滑にする元になるのでしょう。

 みなさんは、どのように心を整えていますか?
こども参拝
 写真は、その時の子どもさんがお祈りをしている様子です。けなげで、素直で可愛くてしかたないです。父にならって、履物をそろえる指導を徹底したいと思います。

 きょうもお越しいただきありがとうございました。
岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。
 
 
 


2014年06月08日

初心に帰る日

カテゴリ:心磨き

みなさんにとって、初心に立ち帰る特別な日はありますか?

 きょうは、金光教本部で教団独立記念祭が仕えられます。
明治33年(1900年)に、一つの宗教・教団として公認され、そこに命をかけて尽力なさった先人たちの志を受け継ぎ、世の為に今後のさらなる展開を祈願する祭典です。

 ちょうど3年前のこの祭典において、私は金光教教師としての任命を頂きました。

 その時は、緊張と期待と不安とが入り混じって、ドキドキしたままで、あまり記憶に残っていないのですが、11ヶ月間、同期と一緒に修行をして、ようやくそこに至ったこと、また祖父の願いを実現する第一歩を踏み出したことの感激がありました。

 しかし、正直なところ、3年経ってみるとその感激は薄れ、今の立場がごくふつうのことのようになっている自分がいます。

 また、ご用にお使いいただいているおかげで、「ありがたい」と感じることは日に日に増えていますが、人さまに「ありがたい」と思われ、人のお役に立てている、というあり方には程遠いです・・・

 きょうの祭典への参拝をとおして、金光様が「お世話になるすべてに礼を言う心を大切に」と教えてくださったそのお言葉を頂きなおし、初心に立ち帰り、3年前の想いを心の中で反芻する一日にさせていただきたいと願っています。

 独立記念祭早朝参拝
 写真は、けさ3時45分頃の金光教本部境内の様子です。

 金光様は、毎朝この時間にお出ましになり、世界の平和と人々の助かりをご祈念してくださっています。(御五代、155年にわたって継承されています)

 ありがたいことに、参拝されている方々と一緒に、提灯でその御足元を照らして、お姿を拝し、これまでの御礼を申し上げることができました。

 きょうもお越しいただきありがとうございました。
岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。
 

 

2014年06月07日

他者の目でも見ていますか?

カテゴリ:心磨き

心磨きの際、他者の目線を取り入れると、新たな発見があろうかと存じます。

 昨日、いつものように父と一緒に、金光教本部へ夕方のお礼参拝をさせていただきました。

 車を駐車場に止めて、境内につながる階段を上がり、毎日参拝されている或るご婦人とごあいさつを交わした際、「いいですねえ。いつも親子で・・・」と声をかけていただきました。

 思いがけないお言葉にありがたく、お礼を申しまして、同時に気付かされました。
「ああ、毎日こうして父と参拝しているが、それが当たり前のことになっていたな」と。

 時には、参拝の道中で父と言い合いになることもありますし、決して気持ちの良いことばかりではありませんが、そのご婦人のお言葉のおかげで、他者から見れば、当たり前のことではなく、ありがたいことであり、それは、私にとってもそうである、と認識させていただきました。

 その帰りの道中、東の空に虹がかかっているのが見えました。思わず土手沿いで車を止めて、スマートフォンで撮影しました。

 
 その時、土手の下を小学生の子どもたちが通りかかり、こちらにあいさつをしてくれました。私も「こんにちは。」と返したところ、「おじさん、何やってるの?」と問いかけてきました。

 私が撮影している様子が気になったのでしょう。「でも、おじさんは無いじゃろ!おにいさんよ!」と思いながら苦笑いして、「虹が見えるよ~。あっち!」と虹の存在を教えてあげました。

 子どもたちの目線では気付けなかった様子でしたが、少し土手を上がると見えたようで、「あ、ほんまじゃ!」「あ。あった、あった!」と喜んでくれて、今度は、他の友達にも呼びかけて、「虹が出とるよ~。あの“おじさん”が教えてくれた」。

 「また、“おじさん”って言われた・・・でも、子どもたちから見れば、私は立派なおじさんか。」と、認めている自分がいました(笑)

 そして、「バイバイ」とお互いにあいさつして、「ありがとう」、「おじさん、ありがとう~!」と
また、“おじさん”と言われ(涙)・・・車に乗って、そこを後にしました。

 この時私は、子どもたちから見られたら、立派な“おじさん”である、ということに気付かせていただきました。(自分の中では、まだ二十歳なのですが。)

 しかし、それをちゃんと自覚しないといけないですよね。

 こんなふうに、自分のことは見えているようで、見えていないことがたくさんあるのだと思います。当たり前だと思っていたことが、実はありがたかったり、未だ若いと思っていても、年老いて見られたり、探せばもっとたくさんあるはずです。
 

 他者の目線、素直に受け入れて、大切にさせていただきたいですね。

 さらには、父が教えてくれたこととして、金光教の教祖様は、いつも物事を「神さま」の目線で見ておられたそうです。

 そうして、他者からの何気ない発言や目線、出来事だけでなく、数々の苦難をも、神さまからの差し向け=試練として受けておられ、苦難を乗り越え、生神様と称えられ、たくさんの人を助ける働きをなさったのです。

 私たちも、目の前の課題、辛いこと、苦しいことを、神さまの目線で見ていくことで、試練であり、先につながる契機となること、と受け止められるよう、心を磨き続けたいものです。
虹2
 写真は、その虹です。
神さまは、私と子どもたちの会話を、どうご覧になっていたのでしょうか・・・

 きょうもお越しいただきありがとうございました。
岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。