2014年09月02日

一生懸命の信心(音声ブログ)

カテゴリ:心磨き祈りについて音声ブログ

昨日のお話が、音声ブログとして更新されています。

http://www.voiceblog.jp/shiawasehiroba/

今回は、教会長による「一生懸命の信心」というお話です。

(※音声ブログは、基本的に毎朝8時頃には更新されます。)

2014年07月12日

教えを「頂く」のにかかる時間

カテゴリ:人間関係心磨き東北復幸支援祈りについて

助言やアドバイス、教えをどれくらい時間かけて「頂いて」おられますか?

 2011年3月11日、私は金光教学院で修行中でした。新聞で情報を知り、騒然としていても立ってもいられなくなり、同期生のみんなで議論になり、神さまの前に一同に会して、意見を交わしました。

 そこでは、次のような願いが生じました。
・祈願詞を作って、毎夕勢祈念をさせていただく。
・お小遣いを募って金光さまにお届けし、御取次を頂いて神さまにお願いする。
・また、お下げいただく御神米を被災地にお届けする。
・岡山駅前で募金活動をし、支援金をしかるべき団体に送る。

 これらの施策は、お繰り合わせを頂いて、それぞれが任意で参画し、実現に至ったのですが、その過程では同期生同士がギクシャクすることがありました。
 

 たとえば、「祈る」ということについて、ある方は
「被災された方の気持ちが分からない者が祈るのは偽りで、かえって失礼なことだ」
とおっしゃり、またある方は
「いや、分からないからこそ、祈って稽古を重ねていくのが修行生だ」
とおっしゃり、それぞれの感じていること、ご信心が表に出てきて、
全員が一丸となって取り組む、ということには至りませんでした。

 こうしたことが、私の中では分からないことだらけで、それぞれの思いがバラバラで、かえって関係がこじれてしまったこと、そして「祈る」ということはどういうことか、ここにいていいのか、果たして届くのか、どのように祈ればいいのか?
といったことを、金光さまにお伺い申し上げました。

(当時、学院生活の後半、私は毎朝4時のご祈念に参拝し、金光さまに日々のことをお届け申し上げ、御取次を頂く、という稽古をさせていただいておりました。)

 状況を申し上げ、お伺いしましたところ、じいっと聴いてくださって、間もなく
「氏子、なんなりとも実意をもって願え」とのお言葉を頂戴しました。

 正直に申しまして、私の頭の中は「?」と真っ白になって、
「実意をもって願え」って、どういうこと?
という疑問が膨らみ、文字通りの言葉の意味は理解していたつもりですが、
今目の前で起こっている現実と、頂いたみ教えがうまく自分の中ではつながらず、
問い続けることになりました。

 実意・・・神さまに届くように本気で、一心で、ということなのか?
      学院生全員の思いに耳を傾けて、行き届いて進めるということなのか?
      私の中にあるものは偽りの心だから、控えなさい、ということなのか?
 ・・・etc
 

 結局のところ、私は分からないまま、毎朝金光さまにお届け申し上げ、上述のすべての施策に参加させていただき、学院在学中にも答えが見つかりませんでした。

 さらには、卒業後にもずっと問い続け、出来る限りの支援活動に参加し、企画し、そして実体験をもって感じることが増えながら、現在も分からないままです。

 ありがたいことに、今に至るまでの間、東北の復幸支援活動を通じて、たくさんの方との出会いを頂き、ご協力を頂き、その時に出来るだけの精一杯のことをさせていただくことができました。

 人が神さまから頂いている「神心(かみごころ)」にいっぱい触れました。

 また、支援活動などを通じて、実際に被災地に訪問させていただき、住民の方々と直接触れ合う機会をたくさん頂きました。現地でずっと支援活動をなさっている方、教会の先生方のご用のお姿に、教えていただくことがたくさんありました。

 人が神さまから頂いている命の尊さ、天地の雄大さを実感することばかりでした。

 一方で、被災地の状況はどうか、果たして少しでもお役に立つことができたのか、かえってお邪魔になったりご迷惑にはなっていないだろうか、宗教者として、もっとできることはないだろうか?
といった問いが膨らんでいるのも現実です。

 きのう、40ヶ月目を迎えさせていただき、あらためてこれまでのことをふり返り、来月に予定している支援活動に際して、「実意をもって願え」とのみ教えを頂きなおしました。

 こころの宮/金光教乙島教会では、それぞれの悩み事や願い事などをじっくりと聴かせていただき、「御取次」の働きをもって神さまにお届け申し上げ、時には教えをお伝えしています。

 そこで頂く教えによって、直ぐにハッと気付かされ改心して、事態が好転したり、病気が快方に向かったり、願いが成就したり、と短時間で瞬時におかげを頂くことが多くあります。

 しかし、聞き手によっては、その教えをうまく受け止められず、直ぐに理解できず、長い時間を要することもあります。

 私自身はその取次者でありますが、同時に参拝者でもあり、この度の大震災を契機に金光さまから頂いたみ教えを、「頂こう」と未だにもがいています。

 いつの日か、み教えを「頂いた」と実感できる日が来るのだと信じておりますが、今までのところで少なくとも言えることは、み教えを「頂こう」と取り組む中に、自分勝手なあり方、人間本位のあり方を問い直したりしている自分がいて、そのこと自体がありがたい、ということです。

 しかも、被災地に訪問する度に、感動して涙がこみ上げて来る時間を頂いていて、そのことが今の自分のふだんのご用の上にも大きな力を頂いております。

 もし、教えを「頂こう」としていなければ、もっと自分勝手なあり方で、ご迷惑をおかけし続けたり、嫌な思いをさせてしまったかもしれませんし、「頂こう」とする中で、軌道修正して何とかなったことが何度もありましたので、感動することが一度も無かったかもしれません。

 すでにここまでで、たくさんのおかげを頂いていることに気付かされるのです。

 まだ「頂く」ために稽古を続けている最中ではありますが、「頂こう」と求めているおかげで、神さまがお示しの天地の道理に沿ったあり方にお導きいただいているのだと感じざるを得ません。
 月
 写真は、けさ金光さまのお出ましをお迎えさせていただいた後、帰りの道中でお月様を見上げつつ、玉島の港を写したものです。

 肉眼では、この写真の十倍くらいに見え、黄金のような琥珀のような色で、クレーターがくっきり見えました。まんまるでした。

 ずっと見続けていたいくらいでしたが、絵で表現できたらいいな、とも思います。
 

 きょうもお越しいただきありがとうございました。
岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。

2014年07月04日

座ってどうなるのか?

カテゴリ:取次者の目線心磨き祈りについて

毎朝、「お結界」に座っておりますと、外から見られた自分のことが気になります。

 朝3時に教会を出発し、金光さまのお出ましをお迎えした後、戻って、4時から参拝される方からの願い事を受け付け、5時半過ぎまでの約1時間半が、参拝者が無く、 静かにご祈念をさせていただく時間になっています。

 今の時期ですと、少しずつ空が明るくなってきて、5時を過ぎると外を通りかかる方の様子も見えてきます。鳥の鳴き声を聞きながら、時間の移り変わりと一日の始まりを感じつつ、落ち着けます。(時には、眠くて集中力を欠くこともありますが)

 この時間帯、それほど人通りはありませんが、健康の為にウォーキングをされているであろう方、歩いて通勤されいる方、知っている人、知らない人、バイクで新聞配達をされている方、車で移動されている方など、10数名の方が通られます。

 私は「お結界」に座らせていただいて、ご祈念帳に参拝者からの願い事を書いたり、私自身が教会のこと、信奉者のこと、これまでお世話になった人たち、世の人々のことなど、ご祈念させていただいていることを書いて、一人心の中で祈りを捧げています。

 そんな時、外を歩かれている方がつい目に入ることがあり、さらには目が合ってしまうこともあります。なかには、外からこちらに向かって参拝される方もいます。

 こちらとしては、「今朝もウォーキングをなさっているのですね。ありがたいことです。おはようございます。どうぞきょうも一日お元気で。」という気持ちで、会釈をさせていただきます。座ったままで。

 そうすると、なんとなく、通りかかる方も好意的に受け止めて下さっているような表情になっておられ、何だか少し気持ちが通じた感じを受けます。

 ふと、通りかかる方は、外から中にいる私をご覧になって、どのようにお感じなのだろう?と思ったりします。

 「この人、何でじっと座っているんだろうか?」
 「何をしているんだろうか?」
 「ひまな人だなあ」・・・etc

 ここは「お結界」。神さまと人とがつながる結節点。人々の願いを神さまに届け、神さまの願いを人に伝える特別な場所。

 今となっては、こうした場があることが、どれほどの人たちの心の救いや助けになっていることか、実感が沸くのですが、20代前半までは、むしろ反対のことを考えていました。

 「座ってたって、何も始まらないじゃないか」
 「祈っても、具体的に社会がよい方向に変わるわけない」
 「より世の中の中心で、直接お役に立たなければ」

 そういう思いもあり、私は大学卒業後、社会人になることを願い、会社に就職しました。そして、たくさんの失敗をし、体験をし、世の中のお役に立てるであろう、事業を進めることができました。それはそれで、大変ありがたいことでした。

 しかし、今頂いているご用は違います。

 「誰かが座っているからこそ、安心を得られる」
 「祈りのない行動は、危うさを持ち合わせている」
 「グローバルに考え、ローカルに実行する」

 こんなふうに受け止め、座って祈ります。

 ですので、通りかかる方からどのように見られているのか、気になるところではありますが、こちらとしては、求められているかどうかに関わらず、また想いを感じ取っていただけるかどうかを問わず、ただひたすらに人々の身の上を願い、祈り続けています。

 果たしてお役に立てているのかどうか、まだ実感はありませんが、この働きが今の私の役目。取次者。引き続き心を磨き、いっそう座りとおしてまいりたいです。
広前
 写真は、朝5時過ぎごろ、「お結界」から玄関、外を見た角度です。
こころの宮/金光教乙島教会には、「お結界」が西と東の二箇所あります。

 きょうもお越しいただきありがとうございました。
岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。
 

 

2014年06月25日

ご祈念帳の威力

カテゴリ:祈りについて神さまについて

こころの宮/乙島教会では、日々の参拝者からの願い事などを「ご祈念帳」に記して、神さまにお届けし、祈りを込めています。

 きのう、ある先生と打ち合わせをしていたのですが、話の流れで地元地域の法人や団体、個人との連携を深めていくこと、その取り組みについて伺いました。

 思いがけないことでしたが、私自身も教会の働き、こころの宮の役割の柱として、お世話になっている地元地域への貢献、こころの助かりを支えるつながりを、様々な団体、法人、個人と深めて広げていきたい、という壮大な願いがあります。

 ですので、同じように感じていたことがあり、私なりに考えていることをその先生に申し上げて、想いを強めることができました。

 具体的に取り組んでおられる方のお話をお伺いでき、ちょっと興奮しました。

 実はこのことは、私が毎朝「ご祈念帳」という帳面に記して祈願していることの
一つなのです。

 けさも、参拝者からの願い事を記して、一通り終えてから、自分自身の今日一日の願い事や中長期的な願いなどを記しているうちに、
「あー、そうだ。きのうのことは、毎日記している“地域社会への貢献”、”こころの助かりを支えるつながりの構築”の願いと関わる出来事だ。神さまがお繰り合わせしてくださったんだ。」と気付かせていただきました。

 このような事は、毎日あります。ご祈念帳の働きは、私自身まだよく分かりきってはいません。しかし、ご祈念帳に書かせていただいたことは、何らかの形で動いていき、決して変な方向に進むことはない、ということに驚いています。

 それから、ご祈念帳を見返してみて、「あ、このこと実現してる!」と気付かされること、願っている本人は、願い事が成就すれば、それでもう忘れてしまっていることがたくさんある、ということにも気付かされるのです。

 そういう意味では、ちゃんと神さまにお礼を申し上げないといけないことを、思い出したり、再確認させていただける働きもあると、反省しつつお礼申しています。

 みなさんは、日々の願い事や悩んでいること、念願していること、夢や目標など、神さまにお届けされていますか?
 ご祈念帳2
 写真は、今朝のご祈念帳です。和紙を縦半分に折り、ひと月毎に綴っていて、
月末には15cmくらいの厚さになります。

 
 きょうもお越しいただきありがとうございました。
岡山・倉敷で悩み相談、願い事祈願は「こころの宮」まで。


2014年06月25日

想いをめぐらし、祈る。(音声ブログ)

カテゴリ:祈りについて音声ブログ

昨日のお話が、音声ブログとして更新されています。

http://www.voiceblog.jp/shiawasehiroba/

今回は、副教会長による「想いをめぐらし、祈る。」というお話です。

(※音声ブログは、基本的に毎朝8時頃には更新されます。)